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手元に届いたメールを見て、思わずため息を零してしまった。別にメールが送られてくる事自体に文句はない。ないのだが。
尊敬する上司からのメールを光栄と思うことこそあれ、こんな呆れとともに見つめるなんて、本当は自分だってしたくない。尊敬と畏怖だけ抱いて見つめていたいと思うのはわがままなのか。そうじゃないはずだ。
このメール、今月に入ってから一体何回目だろうか。極秘任務で自分の身が危険に晒されているにも関わらず、こんなことのために更なる危険を冒すなんてあの人は阿呆なのではないだろうか。それとも出来る人間というのは自分の理解できる範疇から軽く飛び越えた発想をするのが当たり前なのか。否、彼の場合このメールは単なる私利私欲だろう。わかっているのだそんなことは。メールが届いた時点で知っていた。だからこれは、ほんの少しの、単なる現実逃避というやつだ。
避けられない現実に直面するため、重い腰を持ち上げる。正直こんなくだらない事一つ自分は出来なかったと報告するのも嫌だし、何よりそんな些事で大目玉を喰らいたくはないのだ。彼の比ではないが、それでも暇じゃない。
上司の机に堆く積まれた、新品除菌済みのタッパーを持つ。書類の山と肩を並べるこれ、本当にどうにかならないものか。

「昼、行ってきます」

ここ一月で常連と化してしまった食堂へ足を向ける。気が重たかった。



降谷さんがおかしくなった。
そう言い始めたのが誰だったかはもう忘れてしまった。新入りの感嘆だったかもしれないしベテランのぼやきだったかもしれない。とはいえ原因ははっきりしていて、彼らの発言の大元は降谷さんがきちんと食事を摂るようになったことだった。
もちろん彼だって人間だから、食事を摂るのは至極当たり前のことである。言いたいのはそういうことではなくて、それまで食事に割く時間があるならその分仕事をするというスタンスだった彼が、いつからか決まった時間に食事を優先することが目立つようになったということ。
登庁日の午前11時あたりから壁の時計を睨みつけ、昼休憩に突入するとともに企画課を飛び出していく。初め何事かと目を見開いた職員たちは、しかしその行き先が食堂であると分かるとさらに目を見開いた。
あの、降谷さんが。
言葉にならないつぶやきは、およそ全職員一致したものと思われる。
そもそもにして公安職員というのは、常人と比較して警戒心がべらぼうに高い。他人が作った食事なんて猜疑心の向く最たるもので、それをまさか、あの降谷さんが自ら好んで食べに行くとは青天の霹靂もいいところだ。いかに社員食堂という安全が比較的約束された場所とは言え、目の玉が飛び出る心持ちである。
しかも休憩の一時間前から時計と書類とを交互に睨みつけるほどの執心ぶり。
学校給食でも楽しみにする学生ですか、あなたは。そう突っ込みかけたが飲み込んだことをどうか褒めて欲しい。かと思えば以前同様昼食を放棄する日もあるようで、果たして一体彼の中になんたる変革が起こったのか、謎は深まるばかりである。
溜まりに溜まった書類を処理しにきたはずなのに「どうして僕は食堂に行けるわけでもないのに登庁したんだろうな」なんてぼやかれた日には本気で子供かと突っ込むところであった。仕事しに来たんでしょうがあなたは。
落ち着け、大人になるんだ、風見裕也。
なんて大人しくしていれば状況はさらにエスカレートした。

「明日の食堂の日替わり定食を購入しておいてほしい」

緊急かと思い急いで取った電話の内容がこれである。果たして一体自分は何を言われているのか。わずかだが脳が思考することを放棄したように目の前がぼやけて来たのは気のせいだろうか。
「おい、聞いているのか?」
天を仰いで神を探したところで耳に届くのは啓示ではなくトチ狂った上司の声。嗚呼無情。
「はい、聞こえています降谷さん」
至極真っ当に返す自分はずいぶん真面目だな、そろそろこの携帯を放り投げてしまってもいいんじゃないだろうか。
「じゃあ頼んだからな」
初めてお使いに行く子供を見送る母のように、「忘れるなよ」、「本当に頼んだぞ」と何度も何度も念押しして降谷さんは電話を切った。食堂で昼食を買うというのはそんなに難易度の高い任務なのだろうか。というか購入しておけってどうすれば良いのだろう。常温保存か冷蔵か。食器は返却しなければならないのではないか、そもそも食堂の外に定食を持ち出すって許されるんだろうか。
様々な疑問が頭を横切り、不意に視線を向けた先は上司の机。問いかけたって返事が返ってくるわけでもないが、なんとなく向けた視線は、しかしその場に似つかわしくないものを見つけることになった。書類の山にそっと隠れるように置かれた、ビニール袋。
あの人はなにをどこまで見通していたんだろうか。
その類稀なる才能が職務において花開く分にはなんら問題ない。むしろその才覚を上層部は評価し、自分たちは憧憬を抱き、今日まで働いてきたといっても過言じゃないだろう。それは誇りでこそあれ、何一つも悔いはない。
だからこそ、余計に。
日替わり定食一つのために躍起になって登庁したり、登庁不可能を予測してタッパーを準備したりする上司の姿を、複雑な気持ちで見つめる以外にどうすればいいかなんてわからないのだ。



本日の日替わり定食はナポリタンだった。
新品だったタッパーは無残にもケチャップの赤で染まっている。これは洗ってもしばらく取れないだろうなと思いながら、ナポリタンを無表情で食べ進める上司を観察した。
この上司はいつもこうだ。
危険を冒して登庁し社食で食事をしても、人にわざわざタッパーを持たせて日替わり定食を確保して食べてもいつもこの顔。まるで納得がいかない、心底不愉快だという感情を外側に出さないよう殺した結果の無表情。二徹明けの書類作業中によく見る顔だ。そんな表情するくらいなら食べなければいいのに(そうすれば食堂へタッパーを持ち込むという自分の奇行もなくて済む)とは思うが口には出さない。賢い部下というのは無駄口の少ない部下だと心得ている。
とはいえ、もっきゅもっきゅと効果音がつきそうなほどの勢いで食べるのだから決して不味いというわけではないらしい。事実、自分も食したが普通に、いや普通より美味しかった。美味しいならそれなりの顔をして食べて欲しいと思う。
価格の割にボリュームはたっぷりだし、冗談かと思うほど具も沢山だった。マッシュルームが嫌いな人間には地獄だろうが。その辺の定食屋へ向かうくらいなら、あそこの社食で済ませる方が金銭的にも労力的にも、そして満足度的にもはるかに建設的だろうとは思う。なるほど降谷さんが足繁く通うわけだと納得した。
ならば一体なにが不服なのか。
首を傾げてみたところで、結局のところ自分にはわからないことなのだろう。なにせこの人の思考回路である。自分ごときに到底理解できる範疇に収まらないことはすでによくよく知っていた。
「風見、味付けは聞いたか」
「はい」
変わらずの無表情で、降谷さんは問う。もきゅもきゅと吸い込まれていくパスタはもう半分も残っていなかった。ジャケットの内ポケットからメモを取り出し読み上げれば彼はますます納得いかないと眉間に皺を深く刻む。
「コンソメ、砂糖、ケチャップ。他には?」
「いえ、それ以外には特になにも入れていないと。……そういえば使用しているコンソメのパッケージをくれましたよ」
外ポケットから袋を取り出す。あまりに突然渡されたため、思わず証拠品袋に入れてしまったので些かシュールな状況にはなっているが降谷さんは特に気にしていないようだった。しげしげとパッケージを、裏も表もくまなく眺め、それから頭を抱えた。
「今日はまるっきり普通だな………」
普通じゃないナポリタンが良かったのだろうか。普通じゃないナポリタンとはなんなのだろうか。そもそも、いつも味付けを聞いてくるよう言われるが今まで普通じゃない味付けだったことなんてなかったと思うのだが。多分、そこがしっかり料理をする降谷さんと、食えればいい自分との違いなのだろう。いつまでたっても降谷さん並みの料理なんて作れる気がしない。作る必要もないが。
なんてぼんやり考えている間に、降谷さんはナポリタンを食べきったらしく両手を合わせていた。こういうところ、妙に律儀な人である。
「分量は聞いたか?」
「聞いたんですが、その」
「またか」
「そもそも計量したことなんかないそうです」
大きな大きなため息を零して、降谷さんは背もたれに全体重をかけた。四肢を投げだし全身を弛緩させるその姿は、まるで打つ手なしを体現したようである。これもまた、いつものことだった。
「彼女は計量カップの存在を知らないのかもしれないな」
かわいそうに。
そう呟いた降谷さんの言葉が単なる現実逃避であることくらいは、流石にわかる。どうして現実逃避したくなっているのかは知らないが、しかしなんとなく知りたくない気もした。
「先月の唐揚げの下味は焼肉のタレ、この前の鶏肉の焼き物はラーメンスープ、サバの味噌煮は噴きこぼすし、かと思えばナポリタンは普通」
両手で顔を覆って、降谷さんは嘆く。
もう訳がわからない、と。
「本当に調理師免許持ってるのか、彼女は」
そして再び弛緩。
ジロリと向けられた恨めしげな視線は、しかし向けられたところでどうしようもない。自分は彼女ではない故、何か明確に答えられるわけでもなし、嗚呼、けれどそういえば。
「衛生責任者の資格は持ってるって言ってましたよ」
正確には彼女に聞いたのではなく、彼女とともに働く女性方が一方的に教えてくれたのだが。あの年代はどうしてもお喋りというものが好きらしく、聞いてもいないことを沢山教えてくれる。いらない情報が八割ではあるけれど。
「………世の中ってなんだろうな」
大丈夫だろうか。
どうやら自分の余計な一言で降谷さんはどこかに迷子になってしまったらしい。これでは優秀な部下になど到底なれそうにない。一人落胆していると、降谷さんは煮え切らない表情のまま立ち上がった。
「帰る」
手早く荷物をまとめ、処理済みの書類をこちらへ寄越す。すっかり忘れていたが、降谷さんは本来これを処理しに来たのだ。決してナポリタンを食べに来たわけではない。いや、本人の中でどういう認識になっているのかはわからないが。
「明日はどうしますか」
「……ん、ああ。明日はいらない。彼女じゃないからな」
わかりやすく肩を落として、ため息を一つ。小脇に抱えた、空のタッパーに視線が飛んだ。
「毎日三食、これだったらいいんだけどなぁ」
小さな小さな呟きは、しかし二人しか居ないこの場所で聞き逃すはずもなく。
「…、降谷さん」
「うん?」
「………あ、いえ。お疲れ様です」
「ああ、それじゃあな」
大丈夫ですか、なんて聞けなかった。本当は、どうして明日が彼女じゃないとかそんな裏事情めいたものを知っているのか聞いてみたかったのだけれど、それどころじゃなかった。毎日三食ナポリタンでいいんですかなんて、そんなくだらないすっとぼけをするほどに無能ではない。
だって、降谷さん、それは。
もうだいぶ掴まれてるじゃないですか。

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