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名を呼ばれた気がしてシンクから顔を上げれば、目の前には見知らぬ男がいた。
色素の薄い頭髪に、印象的な舛花色の瞳。些か童顔とも言える顔立ちに似つかわしくなさそうな上物のスーツは、しかし不思議と毛ほどの違和感もなかった。
地位も実力もある、エリートやらキャリアと呼ばれる人間なのだろう。そう転職してから三ヶ月で培われた知識が答えを出した。
だとするならば、この男が私の名を呼んだわけではないだろう。名字を呼ばれることは星の数あれど、上から下までフルネームなんて社会人にもなってそうあるわけもない。それもこんな、いかにも上層部然とした人間には更に。
たぶん、ここ数日、少し夜更かしをしたせいで空耳でもしたのだ。ゲームのイベント順位を躍起になってキープしようとしたのがいけなかったかな。いや、そもそもランキングボーナスにあんな反則級の報酬を出してきた運営が悪い。書き下ろし絵柄とかやめてほしい。しかも予告なく。加えて限定ガチャまで実装してくれちゃって、これは一体なんのいじめなんだ、尊すぎるむり辛いありがとうございますと膝折りそのままコンビニまで魔法のカードを買いに走った。推しの力って凄いよね、一キロ全力で走ったよ。息切れしてレジの店員に気持ち悪い奴だと思われたとて知ったことか。
とりあえず目的のランキングボーナスもガチャも勝ったので文句はない。ガチャは爆死しかけたけど、来ればそれで良いんだ。家賃以下は課金じゃないって誰かも言っていた。
なんて考えながら、私は男の持つ、空っぽのお膳を受け取るべく両手を差し出した。本当ならば返却口まで返してほしいところだけれど、こういう人は存外多い。慣れてしまったということには少し残念な気持ちもするが、それも仕事の一つと言えばそれまでだ。いちいち目くじら立てるより、さっさと受け取って洗った方が早く終わる。
「ありがとうございました」
使い飽きた定型文を口にして、シンクから少し身を乗り出すとその男は口を開いた。
薄い、形の良い唇が、酷いスローモーションで私の名を象る。実際どれ程の時間をかけたのかなんて、私は知らない。けれど妙にゆっくりと。けれどはっきりと。男は私の名前を呼んだ。
私は空耳などしていなかったことが発覚した。
そうすると出てくるのが、なぜこの男が私の名前を知っているのか、という疑問である。簡単に言ってしまえばエプロンに名札が付いてるよって解答なのだけど、しかし生憎、本日の私はあんぽんたんなので名札を付けていない。ぼけて昨夜洗濯にまわした。再発行の申請を掛けてはいるが、上司は最速で明日だと言う。専用の用紙が切れているそうだ。なんてタイミングの悪い。ていうか専用の紙って何?ガムテープでよくない?そう思ったけど恥ずかしいからやめろと止められた。なんで?名前ないよりいいと思うんだけど。
そういうわけで本日名無しの権兵衛である私の名前など、現時点目の前の男が知る術などないのである。というか知る必要もないだろう。一厨房職員の名前なんて知って得することはなにもない。せいぜいおかずの唐揚げが一欠片増える程度である。欲しいか?唐揚げ一欠片のおまけサービス。因みに私はいらない。
首を傾げた私に、男はさらに口を開いた。出てきた言葉は、当然のように私の疑問に答えるものではなかった。

「今日のこれは、君が作ったのか」

今日のこれ。
一瞬なんのことだと呆け掛けたが、彼が手にしているものがこれだとするならば答えはイエスだ。本日の日替わり定食、鯖の味噌煮は私が出勤とともに朝8時から作ったものである。はて、さて、何か問題があったのだろうか。まさか異物混入か、食あたりか。まじかよ冗談だろ???
瞬時に最悪の結末まで予想して、とりあえず謝罪を入れる準備だけは整えた。腰がちょっと引けているのは謝罪で身を折るためだと言うことにして置いてくれ、決して目の前の男が怖すぎるなんて理由じゃない。いや、なんか空気がむちゃくちゃ怖いけど。
脳裏では謝罪の後、事務室にいるだろう上司を呼んで、なんて後の算段をつける。背筋をうっすら冷たいものが伝って、脳幹がさっと温度をなくす。
「そう、ですけれど」
「本当に?」
嘘なんて言って一体どうするんだ。
責任逃れしたい気持ちは山々だけど、適当な嘘をついたところで調理場に戻って作業記録を見ればすぐバレる嘘なんかつくもんか。巧詐は拙誠に如かずってしらないのか、最近知ったけど。
こくり頷けば男の眉間にシワがよる。なまじ綺麗な顔をしているものだから、凄絶な恐怖に食われそうだった。本当怖い、なんなのこの人?クレーマーだとしたらとんでもなく適職だよ。
「あっちのおばちゃんじゃなく?」
すい、と彼が目をやった先。ちょうど彼が持っているのと同じ、日替わり定食のお膳を提供するおばちゃんが見える。名を酒井さんというパートの彼女は、残念ながら鯖の味噌煮なんて作っていない。デザートのオレンジを切っただけである。しかもちょっと雑に。すまない、要らない情報だった。
そう伝えると男はさらに眉間のシワを深くした。怖い、怖すぎる。ほんともうちびりそう。いい年した大人がちびるとか恥ずかしすぎてやってられないから決してそんなことしないけど。
しかも返って来た言葉は
「納得出来ない」
だった。
一体何に納得出来ないんだ、あなたは。そして何に納得したいんだ。もうなにも分からない。いっそ生まれたての赤子の意思の方が汲みとれるんじゃないか。
なんて狂い始めた思考回路に、男が更なる追い討ちをかける。
「隠し味に何を使った、味噌か」
鯖味噌の隠し味が味噌ってどういうことだ、何も隠してないじゃないか。寧ろ味噌の入ってない鯖味噌って何なの、鯖なの?え?寧ろなにかの隠語?ごめん本当にわかんない、なんなの???
するりと呼吸のように浮かんだ言葉を慌てて飲み込む。だめだ、相手はエリートキャリアだ。余計なことをするんじゃない。色々めんどくさい職場だけど、シフト制だし希望休は出せるし給料は前の二倍なんだ。黙って大人しく角が立たないように仕事して、長く勤めようと決めたじゃないか。私は不安な将来を保証してくれるだけの貯金が欲しい。
言っておくがとっくの昔に伴侶は諦めた。
「白味噌です」
分かっている。自分でもなんてバカな回答をしているんだということは分かっているのだ。トンチンカンもいいところだろ?そうだよ知ってる。そしてこの男の求める答えがこれじゃないだろうことも。だけど、しょうがないじゃないか。他になんて返せばいいかわからなかったんだから。隠し味なんて存在しないんだ、入れてないものを入れたなんて言えない。
「手順は」
男は片眉を跳ね上げさせて、不機嫌を隠しもせず重ねて聞いてきた。心なしかこめかみもビクついている気がする。
手順て何だっけ。鯖は冷凍だったとか、そういう話ではないよね、多分違うよね。仕込みからの話かな、あれ、私8時から何してたんだっけ。
もう混乱しすぎてなんだかわからなくなった私は、
「全部入れて煮ました」
そう、絞り出すように呟いた。
いやそうでしょうよ。
なにせ煮物ですもんね。むしろ煮なかったら味噌煮なんて名乗れませんよね?そうだよね??だから生姜もネギも、当然鯖も、なにもかも一緒に入れて煮たよ当然じゃん。だって味噌煮なんだから。
なんならそのあとちょっと噴きこぼしちゃったからこれからコンロを洗わなければいけないのだと告げれば、なんだか知らないけれど凄い勢いで怒られた。
「は?味噌を?沸騰させた?バカなのかお前。風味が飛んで不味くなるだろ。ありえない、本当に調理師免許持ってるのか?だいたい全部入れて煮たってなんだよ。それでこんなに美味いわけないだろ、馬鹿にしてるのか」
初対面なのにすごい真顔でバカって言われたんだけど。たしかに決して賢くはない自信があるけど、だからってちょっと失礼じゃない?私、貴方と、今が、ファーストコンタクト!!
私はここが警察の関連施設だと聞いて就職したのにおかしいなとぼんやり思った。こんなことなら適当に嘘でも隠し味にソース入れましたとか言っておけばよかった。クソ真面目に、偽証罪で捕まえられたらどうしよう周りは警察だらけだもんね、なんて考えて正直に答えなきゃよかった。果てしなく損をした気分だ。
なにせ目の前にいる人間は、正直に言って正義の味方とか、交番にいるおまわりさんとか、そういう類の頼れそうな人じゃない。スーツこそ着て普通の人を装っているけれど、どちらかといえば間違いなく危ない人だ。表舞台に出て来ちゃいけないタイプの。
そうだ、顔の綺麗なヤクザじゃないのか。頭脳派で精神的にガリガリ攻めてくる一番最悪なタイプじゃないか?
怖い、怖すぎる。身の危険がやばい。語彙力もやばい。そういえばみんな、どことなく顔つきや体がいかついかもしれない。今更だけど、気付くのがおそかった。どうしよう、私は騙されて就職したのでは。ここ警察じゃなくて悪の総本山なのでは??
「いえ、決して馬鹿にしているわけでは」
震える声で答えると彼はさらに不機嫌そうに鼻を鳴らした。お願いだどうか命だけは取らないでくれ。
「じゃあなんだ、僕を嘲笑っているのか」
長く勤めようという決意は三ヶ月で早くも塵埃と化しそうだ。いや、そもそも生き残れるかどうかのサバイバルゲームに勝手に巻き込まれている気がする。嘘でしょ??まじで?だいぶ無理ゲーじゃない?紙装甲もいいとこじゃん私。
「嘲笑ってもいません!」
鯖の味噌煮で得られるアドバンテージってなんだよ。頑張ってもなんのバフにもならないよ、寧ろデバフで済めばいいところだよ。

「僕だって料理くらいするんだ」

ぼそり、と吐き出すように男は言った。
瞳に映る、奇妙に底冷えする舛花色に私の体は無意識に戦慄く。それはおそらく、生まれてこのかた、普通の生活をしてきた私にとってまるで馴染みない、憎悪とか、殺意とか言うもので。
差し出した手を無視し、叩きつけるように御膳を置き。
「………手の内は、絶対に暴いてやるからな」
さながら捨て台詞のような言葉を置いて、男は私に背を向けた。そのまま一度もこちらを振り返ることなく、硬質な革靴の靴音を響かせて食堂から出て行く。
その背中を、私はただ見送った。
扉が閉まって、靴音が遠くなって、小さくなって、聞こえなくなって。そしてしばらくして不意に気付く。

………え、なに?つまりまた来るの?

まじかよ。小さくそう呟くのが、私には限界だった。

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